お盆の季節が過ぎてしまった。お盆とは家ごとに先祖の霊を祀る、日本独特の風習だ。仏教行事の盂蘭盆と混同されるが、家に帰ってくるご先祖様の霊にお供えをして祀る、というのは仏教の教えにはない。日本のお盆に相当する行事やこの時期の里帰りは、中国、韓国やタイなどにも見当たらないから、やはりこれは日本ならではの習俗だろう。日本に根付いた、日本的な宗教儀礼と言える。
日本人は宗教意識が希薄だと言われる。よくアメリカで宗教は?と尋ねられて、なしと答える日本人が多いが、これは誤解を招く。無宗教というのは、共産主義者か無神論者で傲慢な人と思われる。日本人は、特定の宗教団体に所属していないと、無宗教と自称して憚らない。アメリカでは無宗教と称すると、人間としての見識を疑われる。特になくても、仏教、神道などと答えるのが無難だ。
日本は所属宗教が曖昧であっても、日常生活に問題がない便利な国だ。曖昧どころか、意識的、無意識的に混用している。初詣は神社で、葬儀はお寺で、結婚式は教会で行っても、殆どの日本人は別に問題はないと思う。一方、何を信ずるかが重要な欧米人にとっては、この無節操は理解しがたいものだ。神の前で永遠の愛を誓うのに、神を信じていないならその誓いは無効と考える。
日本人でも「神に誓って」という表現を使う。強い確信や意志を表現する場合だ。その人が神を信じているなら問題ないが、どの神も信じていないなら、「神に誓って」言うことは、本当には誓っていないことになる。そんな理屈はどうでもよいのが日本人だ。しかし欧米では、聖書に手を置き、「神に誓って」職務の遂行を誓う。それは神への信仰という、個人の宗教に依拠した公的宣言である。
もちろん、教会の結婚式で神に永遠の愛を誓っても、二組に一組は離婚するのだから、神の前の誓いも空しいと日本人は思うだろう。どうせ誓っても夫婦の事情が変化すれば、契約は破棄される。それならと、宗教儀式は行わない結婚も、アメリカでは増えている。それでも大多数の人は、自分が所属する教会、シナゴーグ、仏寺などで結婚する。結婚を神聖視する姿勢は維持している。
宗教心が薄い日本人だが、宗教意識がないかと言うとそうではないと思う。日本人は日本人なりの死生観を持っている。それは仏教の教えに近いが、仏教そのものではない。お盆はその好例だ。人が死ねばどうなるか、自分の愛する肉親は死んだ後どうしているのか、日本人は自分で漠然と答えを出している。肉体は滅びても、霊魂はどこかで自分を守ってくれている、という意識である。
私は大学時代に、プロテスタントの教会で洗礼を受けた。妻とはその教会で知り合った。その教会で礼拝の奏楽を担当し、日曜学校で子どもの面倒を見、クリスマスには、賛美歌を歌って近所を回った。こう言うといかにも敬虔なクリスチャンと思われるが、そうではない。妻も私も教会には最近とんとごぶさたである。聖書の教えには耳を傾けるが、所属教会の行事にはあまり参加していない。
2月に他界した父の葬儀は、故人の遺志に従い、聖職者なしの音楽葬で行った。母はミッションスクール出身のキリスト教シンパだが、母も私もそれでよいと思った。弟一家はカトリック。それでも母は、お盆のきょうは父の祭壇にお供えをしている。わが家は皆、日本的風習に影響された「日本教徒」なのかもしれない。それで救いと心の平安が得られるなら、それでかまわないと思っている。